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「ここから水辺の未来が動き出す - 水辺とまちの未来創造メッセージ -」水辺とまちのソーシャルデザイン懇談会・国土交通省((財)リバーフロント研究所)
水辺を「拓く」ために

人を拒絶する水辺

 「背水の陣」という言葉があるように、大多数の人は海や河川や湖沼のほとり(水辺)まで来ると、そこから先へは進めないと考える。つまり、水辺というのは行き止まりの袋小路のようなものだ。もしもその袋小路のどんづまりに何もないことがわかっていたら、誰もわざわざその袋小路に入ってみようとは思わないだろう。
 もちろん実際には、水辺には何もない、というわけではない。言うまでもなく、水辺は本来はさまざまな魅力に満ち溢れた場所なのだ。水面を渡る風は心地よく、揺れる水面は陽光や周囲の景色を映しこんで輝き、刻々とその表情を変えていく。釣りやマリンスポーツなどの趣味に興じる人もいれば、そぞろ歩きを楽しむ人もいるだろう。水辺にレストランやカフェがあればついつい入りたくなってしまうし、京都の鴨川のように、水辺はデートスポットとしても定番中の定番である。
 しかし、少なくとも東京、特にその都心部においては、残念ながら水辺はそうした魅力に富んだ場所として人々に広く認知されているとはいいがたい。例えば、隅田川沿いの駒形橋のたもとから厩橋のたもとにかけて、住所で言えば駒形二丁目あたり。江戸通りと隅田川の間を隅田川と平行して走る路地が一筋あるのだが、この路地と隅田川の間には建物が連なり、さらにその先には人の背丈を越えるほどの無機質な防潮堤がそびえ立っているため、この路地を歩いても、すぐそばに隅田川が流れているとはほとんどの人は気づかないだろう。
 もちろん、その防潮堤の向こう側、隅田川の川岸沿いには、目の前にスカイツリーを眺めることができる遊歩道が整備されている。しかし、この遊歩道に下りるための通路は駒形橋と厩橋のたもとにあるだけだ。その間約500m。仮にその路地を歩く人が、すぐそばを隅田川が流れていることに気づいたとしても、気楽に「じゃあ川岸の遊歩道を散歩でもしてみよう」というわけにはいかないのだ。
 もちろん、防潮堤は防災上必要欠くべからざるものであることはよく理解している。しかし、とはいえ、その無機質なフォルムは、安全対策のために張り巡らされている鉄柵と一体となって、あえて水辺に近づこうという気持ちを萎えさせるに十分な負のオーラを無言のうちに発している。そのせいかどうか、せっかくきれいに整備された遊歩道を歩く人の姿はまばらであるように見受けられる。都内の水辺のすべてがそうだとは言えないが、典型的にはこの駒形二丁目界隈の風景は、水辺の魅力どころか、むしろ水辺が人々が近づくことを拒絶しているかのようにすら感じられる。


日常の風景に埋没する水辺

 話は変わるが、アメリカはニューヨークの新名所、ハイラインをご存知だろうか。これは1980年以来使われないまま放置されていた高架の貨物鉄道線を遊歩道として再生したもので、オープン後2年間で400万人を超える人が訪れたという。この再生を主導したNPOの設立者のひとり、ジョシュア・デイヴィッドは、廃線のまま放置されていた往時のハイラインについてこう述懐している。
 「これまで何万回と通り過ぎていながら、こんなところがあることに気づかなかった。見慣れた日常の風景にすっかり隠れていたからだ。」


 東京の河川というのも、印象としてはおおむねこんな感じではないだろうか。
 鉄道や自動車が発明される以前、物流の主役は船舶、すなわち水運であった。現在の東京は江戸時代において既に人口100万人を擁し、世界有数の巨大都市であったといわれるが、水運はその膨大な人口を支える重要な物流インフラであり、そのため江戸市内には河川や掘割・運河が縦横に張り巡らされていた。明治以降に埋め立てられたり暗渠化されたものも少なくないが、それでも東京にはまだまだ多くの水辺が残っている。
 しかし、そうした水辺の存在それ自体が人々の意識の端にのぼることは少なくなっている。クルマや徒歩で水路にかけられた橋を渡るときでさえ、その足下に水路が流れていることに気づかない人も少なくないのではないだろうか。


閉ざされた公共空間としての水辺

 なぜ水辺が人々の意識から締め出されているのか。それは、逆説的な言い方になるが、水辺が公共空間だからである。河川敷は原則として国や自治体など公的セクターが維持・管理する。その意味で公共空間である。しかし、公的セクターが河川敷を維持・管理する際に念頭に置いているのは、まずは防災や安全といった観点であり、人々の利用という観点は優先順位としてはそれより低い地位に置かれている。
 しかも、防災や安全という観点と人々の利用という観点は、両立しない場合が少なくない。防災や安全のためには水辺を人々に利用させないのがてっとりばやいからだ。日本の水辺が人々の接近を拒絶しているかのような雰囲気を漂わせているのは、けっして偶然ではないのだ。
 しかし、本来公共空間は人々に開かれたものであるべきだ。もちろん、防災や安全に十分な手立てを講じるのは公的セクターの責務である。しかし、そのことが直ちに人々の利用を排除するということにはつながらないはずである。むしろ、維持・管理と人々の利用を両立させるように意を砕くことこそが、公的セクターに期待されているのである。


水辺の魅力再発見に向けて

  例えば防潮堤である。下・左の写真のように、隅田川の遊歩道では防潮堤にこのように煉瓦を貼り、遊歩道には植栽を施すといった修景工事が進められている。しかし、せっかく予算をかけて事業を進めている東京都の方には申し訳ないのだが、正直言って楽しくない。なんだか刑務所の塀のようだと言ったら辛辣にすぎるだろうか。
 どうせなら下・右の写真のように、この壁面を巨大なキャンパスに見立てて有名アーティストに絵でも描いてもらったらいいのではないか。有名アーティストにお願いする予算がないのなら、無名のアーティスト達に公募をかけて3カ月とか半年ごとに描きかえさせてもいいだろう。そうすれば行くたびに新しい作品が見られるということで足を運ぶ人も増えるかもしれない。あるいは、地元の小学校などに卒業制作の場として開放するという手もあるだろう。自分たちが力を合わせて描いた作品の前に集まって同窓会を開くなんて、けっこう素敵だと思うのだけれど。
 これらはほんの思いつきのアイデアだが、冒頭にも述べたように袋小路のどんづまりに何もなければ人はわざわざ足を運ばない。だったら、人が足を運ぶような仕掛けをすればよいだけのことだ。水辺には本来それだけの魅力があるのだから。
 そして、やや乱暴に言ってしまえば、それは管理主体である公的セクターの意識改革次第でどうにでもなるのである。現に同じ自治体であっても、水辺の利用について先進的なところとそうでないところの差が、このところ顕著に見え始めている。水辺の魅力の向上に向けた自治体間競争が始まっていると言ってもよいだろう。こうした切磋琢磨を通じて水辺が再発見され、その魅力が向上していくことを人々はおおいに期待しているのだ。


[参考文献]
ジョシュア・デイヴィッド、ロバート・ハモンド著(2013)『HIGH LINE』アメリカン・ブック&シネマ刊



辻田 昌弘

水辺とまちのソーシャルデザイン懇談会
国土交通省((財)リバーフロント研究所)

2014年3月 「ここから水辺の未来が動き出す - 水辺とまちの未来創造メッセージ -」( ,
 
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