北海道開拓の歴史を伝えるために。
車道を廃止してつくった広場「アカプラ」。
2014年7月、北海道庁の前にちょっと変わった広場がオープンした。通称アカプラ、正式名は札幌市北3条広場という。もともとは北3条通りという車道であったこともユニークな点だが、その道の下には、北海道開拓時代の大切な歴史が眠っていた。当時の舗装に使われていた「木塊」である。
2014年7月、北海道庁の前にちょっと変わった広場がオープンした。通称アカプラ、正式名は札幌市北3条広場という。もともとは北3条通りという車道であったこともユニークな点だが、その道の下には、北海道開拓時代の大切な歴史が眠っていた。当時の舗装に使われていた「木塊」である。
大正時代、北海道でも都市の近代化が進み、道内各地で道路の舗装が始まった。北3条通りは1888年(明治21年)に完成した北海道庁赤れんが庁舎から札幌駅前通りをこえて東に続く道。開拓の起点として、1924年(大正13年)に北海道で初めて舗装された道路である。車道には木塊が使用されていた。木塊を道路に使用するのは当時でも珍しく、道南産のブナ材から、長さ15㎝、幅9㎝、厚さ8.5㎝の塊をとり、クレオソート油にコールタールを混ぜた防腐剤を注入する、という非常に特殊な技術で作られ、約12万個の木塊が敷き詰められた。しかし、その歴史は短いものだった。木塊が膨れ上がってしまうため、舗装完成からわずか6年後にはアスファルト舗装で木塊舗装は埋められてしまう。それ以降、道路の整備計画が持ち上がるたびに木塊の撤去が検討されたが、後世に残すべき歴史的な財産であるとして、表面のアスファルトは取り替えられながらも、木塊は大正時代からずっと地下で保存されてきたのである。
時は流れて2007年(平成19年)、三井不動産と日本郵便株式会社が、この地の再開発を行うことになった。札幌三井JPビルディングの開発とともに公共貢献の一環として提案したのが、北3条通りを広場として整備すること。明治時代から大正時代にかけて、この一帯は赤れんが庁舎だけでなく、演舞場(現・時計台)を有する札幌農学校や開拓使の官営工場等の歴史的な建物が集積するエリアだった。北3条通りは、札幌市が定めた「都心まちづくり計画」でも「うけつぎの軸」として、歴史的価値を継承し、新たな魅力を創出して将来につないでいく通りと位置づけられていた。当時の開発担当は「今は街づくりには物語が必要な時代」という強い信念を抱き、地域の歴史を受け継ぐというコンセプトを重視。車道を廃止して、「うけつぎの軸」の起点であるこの場所を、北海道の開拓史を未来に伝える広場にしようと提案したのである。
広場の仕上げ材の検討は二転三転した。インターロッキングや石材が候補にあがったが、開発担当がこだわったのはれんが材。足元に埋まった木塊を残し、赤れんが庁舎との一体感ある風景をつくりたいという想いがあり、どうしてもゆずれなかったのだ。れんが材を舗装材として使用するには耐久性が課題であったが、その点も何度も検証を重ねることで採用が可能となり、広場のディテールを赤レンガ庁舎からヒントを得て、歴史の「韻を踏んだ」景観をつくり出すことができた。
木塊以外にも歴史を伝えるものがある。広場の両脇を彩るイチョウ並木は、じつは木塊舗装された翌年の1925年(大正14年)に植樹されたもの。道内で最も古い街路樹であり、樹齢100年以上のものもある。このイチョウ並木と木塊舗装は、札幌で最初に整備された近代街路であり、当時の道路設計を今に伝える現存最古のものとして、公益社団法人土木学会から「推奨土木遺産」に認定された。
この広場では今、年間を通して様々な季節のイベントが行われている。市民参加型イベントの「サッポロフラワーカーペット」や、広場のオープンとともに地域の新たなお祭りとして始まった「さっぽろ八月祭」などはその代表例。開発後も憩いの場として機能させることで、札幌市の人だけでなく、市外からもたくさんの人が集まる広場となった。その足元には、大正時代から現在に至るまで幾度となく撤去されそうになりながらも、その時代時代の誰かによって残されていった木塊がある。アカプラをつくるのにかかった年月は数年ではあるが、100年近い歴史によってつむがれ、生まれてきた広場でもある。